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ジェンダーの視点からみる「母」と「ふるさと」 ̶明治大正期の三つの文学作品における家の構造をめぐって
https://doi.org/10.34577/00004371
https://doi.org/10.34577/0000437138bdc86c-f7e6-42e3-a87b-baf85b689c54
名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2018-11-28 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | ジェンダーの視点からみる「母」と「ふるさと」 ̶明治大正期の三つの文学作品における家の構造をめぐって | |||||
言語 | ja | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | The Furusato as Mother: Gendered Perspectives on the Home in Three Meiji and Taisho Literary Texts | |||||
言語 | en | |||||
言語 | ||||||
言語 | eng | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
ID登録 | ||||||
ID登録 | 10.34577/00004371 | |||||
ID登録タイプ | JaLC | |||||
アクセス権 | ||||||
アクセス権 | open access | |||||
アクセス権URI | http://purl.org/coar/access_right/c_abf2 | |||||
著者 |
MORRISON, Lindsay R.
× MORRISON, Lindsay R. |
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抄録 | ||||||
内容記述タイプ | Abstract | |||||
内容記述 | 近代日本文化や文学において、「母」と「ふるさと」は同一のものと見なさ れることが多いものの、母の視点から叙述された「ふるさと文学」は極めて少 ない。ほとんどの場合において、母は主体ではなく、他人(たいていそれは大 人になった息子であるが)による想像、または記憶に宿る客体なのである。近 代日本は急速な西洋化を迎えたのにもかかわらず、家の中はいまだに近代以前 の家制度そのものであった。その家制度というのは、封建的な家父長制であ り、そこでは父は絶対的権力を握っていた。家制度では、母は家制度のなかで は位が最も低く、後継者を産む道具としてしか見られていなかった。しかし、 大人になった子どもがふるさとを振り返ったとき、その記憶の中では、絶対的 権力をもつ父の姿はなく、献身的で悲劇的な母親像だけしか残っていなかった のである。その過程により、母はふるさとの代表的なシンボルの一つとなった のである。なぜ母はふるさとを表象するようになったのか、そしてなぜ男性は ふるさとを美化し、理想化してきたものの、女性はそうしなかったのだろう か。 この論文では、三人の近代作家による三冊の短編小説の分析を通して、以上 の問いを検討する。短編小説は、清水紫琴の「こわれ指環」(明治24年)、森 鷗外の「半日」(明治42年)、室生犀星の「幼年時代」(大正8年)である。母 とふるさとの関係とふるさと意識におけるジェンダー格差を考察するために、 結婚制度や、家制度における母の位置や、家への帰属といった関連問題にも焦 点を合わせる。 |
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書誌情報 |
ja : ジェンダー&セクシュアリティ 号 10, p. 61-85, 発行日 2015-03-31 |
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ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | ISSN | |||||
収録物識別子 | 18804764 |