Permalink : http://doi.org/10.34577/00000095
神は死んだ?それなら人間性は死んでないのか? ── 現代に於ける哲学の課題 ──
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神は死んだ?それなら人間性は死んでないのか? |
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JaLC DOI | info:doi/10.34577/00000095 |
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アイテムタイプ | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper |
言語 | 日本語 |
著者 |
田中 敦
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著者別名 |
Tanaka Atsushi
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抄録 |
人間に固有なものという課題は「人間の本質」とか「人間性」として理
解できるが、それは任意の視点から人間独自の特性を分析し、解明すると いうこと以上の何かを意味している。そうした問題をここでは事実性につ いての問いとして捉えたいと考える。 そのような場合、解明されるべき人間性は、現代においてどのように なっているかが問題となる。このように考えると、それは今日神に関する 解明を目指すのと同じような困難さを孕んでいるように思われる。それが、 「神は死んだ。ならば人間性は死んでいないのか?」という題が意味してい ることである。 ニーチェの言葉「神は死んだ」は、それが語られた当時とは比較になら ないほど、今日その衝撃力を失っている。しかし、神はその概念からして も、更に神との関わりに立つ人間にとっても死に得ない存在である。そし てニーチェはまさにそのことを「神は死んだ」と述べた断片の中で明瞭に 描き出している。更に、この断片が書かれたのとほぼ同時期に『このよう にツァラトゥストラは語った』第一部が書かれたが、その冒頭で、ツァラ トゥストラが市場の群集に超人の必要を説く場面は、そのまま死んだ神を 探し回る狂った人の場面と同じである。このことはニーチェにとって「神 が死んだ」ということは、同時に人間が人間としてはもはや生きていけな いこと、人間であること(Menschlichkeit)、人間性も喪失されていること を雄弁に語っているのである。「すべての神々は死んだ。いまやわれわれ は、超人が生きんことを欲する」のである。 ニーチェにとって神の死は、したがって人間性の死滅は、単なる一つの 可能な解釈ではなく、西洋の歴史を貫く出来事、その意味で避け難い問題 として事実性の問題であったといえる。更にニーチェにとってこの問題の 解決、欠乏している人間性を到来させるという課題も、言葉による解明と いう問題ではなく、ここでいう「事実性の問題」として理解されるべきも のであった。しかしニーチェ自身はこの事実性の問いの解決を目差す中で、 その問いを通常の問いから区別することなく追及しているように思われ る。それは答えを求める問いであって、問いを問いとして存在せしめるこ とをしていないのである。神の死の巨大な喪失を、その死が齎したニヒリ ズムを克服することがどうしても求められねばならないのである。 ところで、ハイデッガーの『ヒューマニズムについての書簡』は、ボー フレの質問「どのようにして『ヒューマニズム』という語にその意味を与 え返すか」に答える形で書かれているが、そこでハイデッガーは真正面か らこの問いに答えていない。その意味は、何らかの語にその意味を回復さ せるということは、知的な解明ではない事実性の問いに対しては不十分、 不用意であるということであろう。フッサールが語の意味の回復可能性を 直観に求めるのに対して、ハイデッガーはそれを存在にあるいは事象との 出会いに求めている。事実性の問題は予め「何かとして」意味が既に何か が与えられていることを出発点にとることになる。 しかし、問題は死あるいは喪失という事態である。どのようにすれば 「不在の」「喪失された」事象と出会いえるのかという問いである。まさに この問題こそ、存在忘却という事態の只中で、改めて存在の意味を問うこ とを敢行したハイデッガーの哲学的探究がなしたことである。つまり、ハ イデッガーはまさにそうした事態を形而上学との関係において「克服」で はなく「耐え抜き」と捉えているが、そうした問題こそ、事実性の問いが 要求する問いの問い方であるだろう。 |
雑誌名 | 人文科学研究 (キリスト教と文化) |
号 | 40 |
ページ | 1 - 29 |
発行年 | 2009-03-31 |
出版者 |
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
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ISSN |
0073-3938
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