@article{oai:icu.repo.nii.ac.jp:00000083, author = {森本, あんり}, issue = {42}, journal = {人文科学研究 (キリスト教と文化), Humanities: Christianity and Culture}, month = {Mar}, note = {ニューイングランド社会は、本国で既存の体制に対する異議申立者だっ た人々がみずから体制の建設者となったという点で、またその建設の課題 が政治体制と宗教体制との両方であったという点で、特筆すべき歴史的実 験であった。その建設の途上では、バプテストやクエーカーに対する不寛 容な一面が見られた。彼らの不寛容を現代の倫理感覚で批判することはた やすいが、本稿ではその不寛容に内在する論理を尋ね、これを本来の文脈 の中で理解することを試みた。  アメリカにわたったピューリタンは、教会の設立ばかりでなく市民社会 の設立に際しても、参加者全員による契約を求めた。コトンやウィリアム ズは、世俗的であれ宗教的であれ権力はすべて民衆に由来すると論じてお り、ウィンスロップや植民地政府の特許状は、この原則に基づいて建設さ れる社会が「閉じた集団」であることを明記している。地縁血縁を脱して 自発的意志による社会を構成するというヴォランタリー・アソシエーショ ンの原理は、ひとまずは閉鎖的な私的共同体を結果する。  さらにここには、中世的な寛容理解が前提されている。中世後期の教会 法によれば、寛容とは相手を否定的に評価した上で「是認はしないが容認 する」という態度を取ることであった。寛容は善でも徳でもなく、その対 象は「より小さな悪」に他ならない。中世社会でこの意味における寛容の 典型的な対象となったのは、売春とユダヤ教であった。  ニューイングランドでもこの理解が踏襲されている。教会と社会を自己 の理念に則って新たに建設するという課題を前にした彼らは、異なる思想 をもつ人々を受け入れる必要がなかったので、比較考量の上で当然のごと く不寛容になった。必要に迫られていないのに寛容になることは、真理へ の無関心であり誤謬の奨励である、と考えられていたからである。かくし て中世社会とニューイングランド社会は、同じ中世的な寛容理解の評価軸 に沿って、一方は寛容に、他方は不寛容になった。  だが、やがて変化が訪れる。1681 年にインクリース・マザーは、寛容 が「必要な義務」ではあるが、「大きな船をバラストするのに必要なもの は小さな船を沈没させてしまう」と記している。この発言には、なお消極 的な態度ながら、実利を越えた原理的な善としての寛容理解が芽生えてい る。かかる変化の背景には、王政復古後の本国からの圧力という外在的な 原因と、彼ら自身の世代交代という内在的な原因があった。かくして、 「ゼクテ」として出発したニューイングランド社会は、ひとたび断念した 普遍性を再び志向するようになり、人々の公的な社会参加を求める「共和 国」となっていった。やがてアメリカは、寛容でなく万人に平等な権利と しての「信教の自由」を新国家建設の基盤に据えて出発することになる。}, pages = {165--186}, title = {中世的寛容論から見た ニューイングランド社会の政治と宗教}, year = {2011} }