@article{oai:icu.repo.nii.ac.jp:00000070, author = {梅津, 順一}, issue = {44}, journal = {人文科学研究 : キリスト教と文化}, month = {Mar}, note = {戦前日本を代表するジャーナリスト徳富蘇峰は、熊本バンドに属する初 代プロテスタントの一人だが、急進的欧化主義の旗を掲げた論壇へのデ ヴュー作『将来之日本』『新日本之青年』には、福澤諭吉批判が秘められ ていた。とくに『学問のすゝめ』を意識して書かれた『新日本之青年』 は、福澤の「一身の独立」を促す学問論に道徳論が欠如していることを指 摘し、西洋知識に加えて西洋道徳(「平民道徳」)、ひいてはキリスト教を 学ぶ必要を強調した。  徳富は「文明開化」とともに、知識青年の間に道徳的な空洞化が広がっ ていると見た。これに対して、伝統道徳の「復古主義」、西洋知識と東洋 道徳の「折衷主義」、知識偏重の「偏知主義」の立場があり、徳富は福澤 を「偏知主義者」と位置づけた。福澤は、知識の向上がおのずから道徳を 生み出すと考え、積極的な道徳論を展開することはなかったからだ。  もっとも福澤の『学問のすゝめ』には、西洋由来の道徳論がなかったわ けではない。福澤は当時のアメリカの大学教科書フランシス・ウェーラン ドの『道徳学原理』を参照してその一部を取り入れただけでなく、スコッ トランドで出版された児童用の道徳読本を『童蒙教草』として訳出してい た。福澤は西洋道徳とそのキリスト教的背景も知っていたが、他面『文明 論之概略』では道徳に対する知識の優位を語り、西洋道徳もキリスト教を 積極的に評価することはなかった。  徳富蘇峰も、日清戦後に三国干渉を経験するなかで、「力の福音」に転 向することとなった。帝国日本の推進者となった徳富は、「平民道徳」に 代わって皇室中心の国民道徳を提唱するに至ったのである。青年徳富の福 澤批判のモティーフは、日本帝国の崩壊後、戦後改革の時期に日本の民主 化、近代化の精神的基礎として、改めて注目されることになった。徳富の 甥、湯浅八郎が尽力した国際基督教大学の創立も、その文脈に位置付ける ことができる。}, pages = {21--55}, title = {「平民道徳」とキリスト教── 徳富蘇峰の福澤諭吉批判──}, year = {2013} }