@article{oai:icu.repo.nii.ac.jp:00005481, author = {五郎丸, 仁美}, issue = {54}, journal = {人文科学研究 : キリスト教と文化}, month = {Dec}, note = {本稿は、進化論美学者メニングハウスに導かれつつ、ダーウィン『人間の進化と性淘汰』性淘汰説を美学的仮説として解釈する試みである。性淘汰説によれば、有性生物の二次的性徴として主に雄に現れる装飾は異性の美的配偶者選択によって進化した。生存競争において装飾は不利になりうるが、それは勝利より美が優先されうる証だ。両性とも目的意識はないが、魅力的な雄が配偶機会に恵まれその装飾が遺伝すれば、両者に子孫繁栄が約束されるからだ。雌の好みは集団ごとに統一性があり遺伝するため雄が特定の美に近づくが、新奇性への傾向によって装飾は多様化する。一方人間の性淘汰は特殊であり、男性の髭は第二次性徴であるから、かつて女性に美的選択権があったと考えられるが、後に男性が美を占有したまま女性を支配しその選択権まで奪った。今や女性が美の領域を侵略し、性淘汰による進化も凍結したが、化粧や脱毛など人為的進化は続いている。かかる美の追求は自然史に根ざす。かかるダーウィン美学はカント美学理論を敷衍しているようだ。カントによれば、美しい客観を見ると、意図していないのに主観の認識能力が戯れ快を覚えるため、美しい客観は生の促進の感情を齎し自然美によって人間は世界との適合感を得る。ダーウィンの性淘汰でも、美的判断をする雌は本能に従うだけだが、対象の雄は雌にとって合目的であり、番となり子孫に恵まれるなら両性ともに逐語的な意味で生の活性化を果たし長期的には自然界に適合する。ダーウィン美学はカントが要請した美的判断の間主観的普遍性も例証する。カント美学には感性的領域と超感性的世界を媒介する使命があるため美の自律が前提されているが、ダーウィンの美も最初から自然淘汰から自律している。またカントが自然の多様性を対処すべく美的判断力を導入したのに対し、ダーウィンは有性生物の美は美的判断によって多様化したとし、対照関係も見られる。しかしダーウィン美学は美を人間の特権とするカントの人間中心主義を覆し、美は理性や道徳性よりむしろ性的なものと結びつくという疑念を呼び起こす。だからこそダーウィン美学は、美の性的次元を切り捨てずに人間固有の美的経験の次元を探究する方向性を近代美学に示し、性淘汰説を軽視してきた科学・哲学全般に異議を申し立て、今日の感性中心主義に対して、美的洗練は文化の高級化ではなく、先祖返り・退化なのだという警告を与えてくれる。}, pages = {1--32}, title = {性淘汰説を「ダーウィン美学」として読む : カント美学と照らし合わせて}, year = {2022} }