@article{oai:icu.repo.nii.ac.jp:00000005, author = {川島, 重成}, issue = {43}, journal = {人文科学研究 : キリスト教と文化}, month = {Mar}, note = {『イリアス』第6 歌におけるグラウコスとディオメデスの出会い(一騎 討ちならぬ一騎討ち)のエピソード(119-236)は、さまざまな解釈上の 問題を含む。本稿はそれらの諸問題、とりわけグラウコスの死生観をめぐ る一考察である。  ディオメデスはギリシア勢の名だたる英雄であるのに対して、トロイア 勢に付くグラウコスはほとんど無名の若者である。因果応報の戒めを語り つつ一騎討ちを挑んできたディオメデスに対して、グラウコスは「人の世 は木の葉のさまに等しい」との全く別の人生観で応じ、武勇における彼我 の圧倒的な差異を相対化する。グラウコスは、ディオメデスの強力な威嚇 に巧妙なずらしのレトリックで対峙し、同時にこの一騎討ちを実質的に人 生観のアゴーン(競いあい)と化す。この解釈の裏付けとして、本稿は第 6 歌150-1 行について新しい読み方を提示し、kai. tau/ta(150)は従来の解 釈・翻訳と相違して、「木の葉のさまに等しい」とのグラウコスの死生観 を指すとする。この人生観・死生観のアゴーンにおいて、グラウコスは ディオメデスと堂々とわたりあい、むしろ優位に立つのである。  グラウコスは彼の死生観の例証として60 行にわたって己が家系の物語 (151-211)を語るが、ベレロポンテスの生涯がそのほとんどの部分(155- 205)を占める。神々がベレロポンテスに与えた美しさと雄々しさが彼の 禍に転じる。アルゴス王の妃が彼への恋に狂い、そのため彼はアルゴスか らリュキエに追放されるが、神々の助けを得て、さまざまな試練を克服 し、逆にリュキエ王の娘を娶り、王権の半ばを恵与される。この彼も悲惨 な後半生を送らされる。孤独に荒野をさまようベレロポンテス──この彼 の生涯こそ「人の世の木の葉のさまに等しい」有為転変の運命の典型で あった。  グラウコスが語るベレロポンテスの物語の素材となった民話において は、天馬ペガソスとの結びつきがその中心にあった。それはベレロポンテ スが天馬ペガソスに乗って天に飛翔し、そのヒュブリスによって突き落と されたとするものであった。しかしグラウコスはこのエピソードに言及す ることを意識的に避けた、と解される。グラウコスの死生観は、それ自体 ホメロスによる宗教的洞察であり、アポロン的宗教性の表白である。ホメ ロスは第21 歌でアポロンに同様の「木の葉に等しい」人間のはかなさを 語らせている(462-7)。  グラウコスが語り終えると、ディオメデスは彼の死生観そのものには何 の関心も示さず、二人が実は先祖伝来の「クセニア」(主客友好関係)で 結ばれる者同士であったとの発見を語り、そのしるしとしての贈り物の交 換を提案する。しかし本来は互恵性の原則によって成り立つ筈のこの贈り 物の交換は、ゼウスの介入でグラウコスの判断が狂わされたことにより、 グラウコスにとって全く屈辱的ともいえる奇妙な形で終る。ここにホメロ スのユーモアが窺えよう。これはかの死生観のアゴーンにおけるグラウコ スの「勝利」(と期待されていたもの)に、もう一度どんでんがえしをも たらす。これもまた「木の葉のさまに等しい」とのグラウコスの死生観を 例証するものであった。}, pages = {51--75}, title = {「人の世の移り変りは木の葉のそれと変りがない」――『イリアス』第6 歌におけるグラウコスと ディオメデスの出会いについての一考察、 特にグラウコスの死生観をめぐって――}, year = {2012} }