@article{oai:icu.repo.nii.ac.jp:00004756, author = {榎本, 眞理子}, issue = {13}, journal = {ジェンダー&セクシュアリティ}, month = {Mar}, note = {歴史を通じて「不吉なもの」は女、怪物、人間、機械と様々な姿をとってきた。  その第一は女である。『ユディト書』のユーディットは祖国を救った英雄だ が、ファム・ファタールに変貌させられている。ユーディットは事実多くの相 反する要素を備えている。だが、入れ子構造であることから『ユディト書』は 当時のユダヤ人の男たちに「矛盾に満ちた女性像を受け入れて成熟せよ」と呼 び掛けていると考えられるのである。  『ドラキュラ』は出版当時のイギリス人の様々な恐怖症のみならず、文明へ の疑問、臓器移植、アイデンティティの問題をも内包する書物である。モンス ターの定義は「非人間的なまでに残酷なもの」であるが、実はドラキュラは人 間ほど残酷ではない。  その人間の残酷さを描いた『苦海浄土』は、世界文学としての価値を持つ。 『苦海浄土』には水俣病に見られるエゴイズムのみならず、根源的な人間の残 酷さが描かれているのである。  現代の不吉なものはPCも含む機械である。人間は古来機械に対しアンビバ レントであった。現代では人は機械やITに頼ることなしに生きることはできな い。しかしコンピュータの予測は過去のデータによるに過ぎない。創造性や独 創性は混沌や曖昧さの中からこそ生まれるのであり、人間がコンピュータに勝 れるのはまさにそこにおいてなのである。  我々は受け取る情報の100万分の1しか認識できず、印象や感情に基づいて 判断し、あとで理屈付けをする。視覚すら脳によって作り出されているのであ り、我々は「見たい」、乃至「見えている」と思うものだけを見ているのであ る。我々は身の外のみならず内部にも「不吉なもの」を抱えていることにな る。というわけで、そのような怪しい存在に我々が近づき、理解の糸口をつか む手立ては芸術や文学をおいてほかにはないのである。}, pages = {7--27}, title = {「不吉なもの」の魅惑―『ユディト書』から『プレイヤー・ピアノ』まで}, year = {2018} }