@article{oai:icu.repo.nii.ac.jp:00000109, author = {森本, あんり}, issue = {39}, journal = {人文科学研究 (キリスト教と文化), Humanities: Christianity and Culture}, month = {Mar}, note = {「人間に固有なもの (proprium) とは何か」をめぐる連続公開講演の第一 回として、人間のもつゆるしの能力について論じた。「過つは人の常」とい う格言は、ストア派や論語に見られる古典的な人間理解であるが、18世紀 のアレグザンダー・ポープはこれに「ゆるすは神の常」という対句をつけ た。この定式では、ゆるしは神の側に配置され、人間がゆるしの主体とな ることが不明瞭になっている。キリスト教神学の伝統でも、ゆるしはしば しば神の業として論じられ、人間が人間にゆるしを求めて与える水平次元 の欠落が批判されてきた。しかし、イエスは新約聖書においてゆるしを人 間の能力として語っており、中世の神秘主義思想、ニーチェのルサンチマ ン論、現代のデリダらは、ゆるしの原理的な不可能性を語っている。これ らの議論をふまえた上で、本稿はトマス・アクィナスの「等価的代償」 (aequivalens satisfactio) と「充足的代償」(sufficienssatisfactio) との区別を 援用し、ゆるしが正義や償いを前提としつつも最終的にはそれらに依存し ないことを論じた。ゆるしは、「分析判断」ではなく、算術的な正義を越え た「総合判断」である。本連続講演の主題に照らして言えば、ゆるしは、 被害者のみが与えることのできる「上積みされた贈与」(for-give) であり、 代価なしに (gratis) 与えられる恩恵であり、ゆるさないことが当然かつ正 当である状況のなかで、その状況に抗して行使される人間の自由の表現で ある。つまり、ゆるしは、人間の人間的であることがもっとも明瞭に輝く 瞬間である。このことの具体例として、本稿はふたつの事例を挙げた。ひ とつは、米国議会の謝罪要求決議により再浮上した日本軍の従軍慰安婦問 題における発言であり、いまひとつは、1981年に米国で起きたKKKの黒 人惨殺事件の民事裁判判決における出来事である。いずれの事例でも、正 義の完全な復元が不可能なところで、トマスの言う「充足的代償」が浮き 彫りにされている。なお、ゆるしの実現には、加害者と被害者の間で「謝 罪」と「ゆるし」の交換がなされなければならないが、これは内心におい て先に成立したゆるしの現実に、公の外的な表現を与えるための儀式であ る。それはちょうど、戦争の終結によってもたらされた事実上 de facto の 平和状態に、平和条約の締結が法律上の de iure 正当性を付与してこれを 追認するのに等しい。だからゆるしは過去形ないし完了形で語られるので ある。ゆるしは、この意味で再解釈すると、「あらかじめ与えること」 (fore-give) である。「過去を変える力」として、人間にこのようなゆるしの 可能性がなお残されているという事実に、「神の像」たる人間に固有の本来 的な自由と尊厳 (proprium) がある。}, pages = {1--27}, title = {ゆるしの神学と人間学}, year = {2008} }